Historia del Barça

 

リヌス・ミケルス(Linus Michels)

 

リヌス・ミケルス1971年、ひとりのオランダ人監督がバルセロナに降り立ちます。マリヌス・ジャコブス・エンドリクス・ミケルス。“トータルフットボール”という新コンセプトを、この世に現実のものとして成立させた名監督です。

「フットボールは戦争だ」という彼の信念からも分かるように、非常に厳格な性格でニックネームは“将軍”。あるいは“ミスター大理石”といったものでした。

ミケルスはビック・バッキンハムというイングランド人監督の後を引き継ぐ形で、バルサに入団しました。このバッキンハムという監督は元はアヤックス出身で、ヨハン・クライフをトップチームデビューさせた人物。いわばその後のアヤックスの成功の基礎を築いた人物なのですが、これと同じことがバルサでも繰り返されたのです。

バッキンハムの後任となったミケルスはその3年後にクライフをチームに加入させ、彼らはバルサでも栄光を手にすることになります。

ミケルスが監督としてベンチに座った1971-72、バルサは惜しくもレアル・マドリとの争いに敗れ2位でシーズンを終えます。続く1972-73もアトレティコに次いで2位。なかなかバルサはタイトルを手にすることが出来ませんでした。毎シーズン、リーガのタイトルに手が届くところまで行きながらも、結果的にはそれを失っていたミケルス・バルサ。

彼が監督に就任した当時、チームにはすでにサドゥルニやリフェ、アセンシやレシャック、ファン・カルロスといった名選手たちが揃っていました。ミケルスはその後コスタスやデラ・クルスらを補強してチーム作りを進めていきます。いつカンペオンになってもおかしくはない、それだけの要素は揃っていたのです。システムに固執するばかりに選手たちはやりにくさを感じていたようなのですが、戦力としては十分でした。あと必要なのは、“きっかけ”だったのでしょう。

そして1973年、ついにバルサに救世主が降り立ちます。そう、ヨハン・クライフです。1970年当初、クライフの獲得をクラブに進言していたのはバッキンハムでした。ただ、70年の頃はクライフもアヤックスを離れようとはしていなかったようですし、彼の高額な移籍金がネックとなってバルサも真剣には獲得を考えようとはしてなかったようです。

しかし73年、アヤックスでの居場所を失いかけていたクライフはバルサに働きかけ、移籍を実現させます。ミケルスは実のところクライフを必要だとは思っていなかったという話ですが、いずれにせよ彼はバルセロナへやって来ました。そして圧倒的な存在感を放ったスーパースターに引っ張られるように、バルサは怒涛の快進撃を行い、ついに14年ぶりとなるリーガのタイトルを手中に収めるのでした。

残念なことに、クライフとミケルスの“夢のタンデム”がバルサにもたらしてくれたタイトルは、74年のリーガとその後78年の国王杯の2つだけに留まります。

ミケルスは優勝した翌年に、アヤックスでクライフとともに“トータルフットボール”の中心となっていたニースケンスをバルサに招きますが、彼の理想を実現するにはこの2人だけでは足りなかった。前年までレシャック、クライフとトリオを組んでいたソティルがニースケンスの加入によって退団したため(外国人枠問題)、攻撃力が低下してしまったのです。

様々な要因が絡んでいるのでしょうが、ミケルスのバルサ時代はオランダでのような成功ずくしというわけにはいきませんでした。

2005年3月3日、心臓病によってベルギーの病院にて逝去しました。享年77歳でした。

 
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