Historia del Barça

 

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ (Diego Armando Maradona)

 

マラドーナ1978年にバルサ史上初めてソシオ投票によって会長の座に就いたジョセップ・ルイス・ヌニェスは、バルサを世界的なクラブへと押し上げるため、様々な手を打ちました。そのひとつが、今ではビッグクラブの常識となっている、クラック選手の獲得です。

フットボール・ビジネスに先見の明のあった会長は、ビッグスターを呼ぶことで観客が増え、人気も増え、グッズの売上も増え、クラブ経営にとってプラスになるという持論を展開。これは現在では基本戦略となっていますが、当時はこのような考えによってクラブ運営をする人物はほとんど存在していませんでした。

ヌニェスは会長就任当初からマラドーナの獲得を試みていましたが、アルゼンチン軍事独裁政府の「選手の国外移籍禁止」命令によってオペレーションは難航。ついにマラドーナ獲得が実現したのはその4年後、スペインW杯の開催された1982年夏。ディエゴ22歳の時でした。

クラックの加入に大いなる希望を寄せたバルセロニスタでしたが、肝炎や大怪我によってマラドーナは長期離脱を余儀なくされ、チームのパフォーマンスは不安定。ファンは次第にフラストレーションを募らせ、激しいブーイングを選手や監督に浴びせ始めます。マラドーナとて、その例外ではありませんでした。

ピッチではプロフェッショナルとして振舞っていたものの、夜毎シンパたちとパーティを繰り返し、乱れた私生活を送るマラドーナ。結果と規律を求めるヌニェス会長がこれを快く思うはずもなく、確執は深まっていきます。

そして1984年5月、国王杯決勝でのビルバオとの集団乱闘事件が決定打となり、会長はマラドーナの追放を決意。その夏、彼はナポリへと去っていくのです。バルサ在籍、わずかに2年。あまりにも短い“夢のタッグ”でした。

 
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