Historia del Barça

 

フランコ軍事独裁政権(Dictadura Militar de Franco)

 

フランコ将軍1931年の統一選挙によって台頭していた左翼勢力に危機感を抱いていた右翼将校たちは、クーデターを画策していました。そして1936年、スペイン領モロッコにおいてフランコ将軍がクーデターを起こしたことでスペインは「市民戦争」、いわゆる内戦に突入します(別項参照)。

この血みどろの内戦は1939年1月、フランコ軍によってカタルーニャが陥落し、マドリ市に入ったことで終結します。これがカタルーニャにとっての長き苦悩の時代の始まりでした。

その後は「カタルーニャ独立主義」として、あるいは「我々の代表としてクラブ」として1つのクラブ以上の存在であったバルサの存在意義を消し去ること、それがフランコの狙いとなります。共の場でのカタラン語の禁止、クラブ名称のスペイン語への改名、エスクードのデザイン変更が、フランコの中央政府によってバルサに命じられました。

クラブの理事会も政府の操り人形によって構成され、あらゆる点でバルサは政府の監視下におかれることになりました。また、バルセロナの街では何万人という人たちが反逆罪という名の元に処刑されています。

 
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