Historia del Barça

 

ディ・ステファノ(Di Stefano)

 

ディ・ステファノ
ディ・ステファノ

1940年代後半から50年代初頭にかけて、南米でもっともレベルの高かったコロンビアリーグを席巻していたボゴタというチームがありました。その中心となっていたのがアルフレド・ディ・ステファノです。

クバラ(別項参照)と同じく、サミティエルはスペインに遠征に来ていた彼に目をつけます。そしてそれは当時マドリ会長だったサンティアゴ・ベルナベウも同様でした。

数年前にバルサにクバラを奪われ、それまでに政府の庇護を受けながらも2回しかリーガ優勝のなかったマドリにスター選手を呼ぶこと、これがベルナベウの野望でした。

しかし粘り強い秘密交渉の末、バルサはディ・ステファノの獲得に成功します。バルサの歴史的な勝利の瞬間でした。

ところが、ここで国家権力の介入があります。「外国人選手の国内での労働を禁じる」これが国家スポーツ委員会の発した声明でした。合法的な手段ではどうにもならない、そう考えた「フランコ機関」の驚くべき強硬手段です。

そして交渉の末、スペインフットボール協会は次のような声明を出します。「ディ・ステファノは今後4年間に渡り、次のようなローテーションでプレーが可能になる。1953/54、55/56はレアル・マドリーで、56/57、57/58はFCバルセロナでプレーすること。これが過ぎた後は各関係クラブとフットボール協会の間で最終的にどちらのクラブでプレーするか決定する」

国家機関との勝ち目のない闘争を諦めたバルサは、ディ・ステファノの権利を放棄し、彼はレアル・マドリに入団することになりました。その後マドリは21年ぶりのリーガ優勝、5年連続ヨーロッパチャンピオンなどの黄金時代を迎えるのです。現在ディ・ステファノはマドリの名誉会長となっています。

 
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