Historia del Barça

 

ヨハン・クライフ(Johan Cruyff)
その1

 

クライフ17歳でアヤックスでデビューを果たしたヨハン・クライフは、リヌス・ミケルス監督(別項参照)の下で「トータルフットボール」の体現者として、世界的スターへとなっていました。71年にはバロン・デ・オロ(バロンドール)を受賞し、71〜73年はチャンピオンズ・カップ3連覇。アヤックスのリーダーとして、クライフはその絶頂期にありました。

しかしチーム内での「大将」としての振舞いを同僚たちは快く思わず、アヤックスはクライフにとって、次第に居づらい場所へとなっていきました。そこで彼が目をつけたのが、かつての恩師ミケルス率いるバルセロナだったのです。

バルサはそれ以前、70年頃から頻繁にクライフに接触を取っており、彼の獲得を目論んでいました。けれどもこの移籍を阻んでいたのは、アヤックスの求める高額な移籍金と、それに反対するミケルスでした。それでもバルサは諦めることなく水面下での交渉を行い、クライフも作戦が上手くいくようアヤックスに圧力をかけた。そうして1973年8月、ヨハンのバルサ移籍が現実のものとなったのです。移籍金は当時としては破格の、100万ドルに達しました。

クライフの加入により、それまでは決して芳しい成績を残せなかったミケルス・バルサが快進撃を開始します。向かうところ敵なしのバルサは快調に首位を走り、ベルナベウでは歴史的ゴレアーダ(0-5)を達成。14年ぶりのリーガ優勝はもはや疑う余地もなくなり、実際にバルサはそのまま2位のアトレチコに11ポイントの差をつけ、ぶっちぎりの優勝を果たしたのでした。

バルセロニスタはこの勝利に、バルサの(カタルーニャの)偉大なる未来を予感しました。しかしクライフが78年にクラブを去るまでにクレにもたらしたタイトルは、最終シーズンのコパのみ。彼はバルセロニスタの期待を裏切ったことになるのですが、それでも彼への人気が衰えることはありませんでした。

その理由として挙げられるのが、クライフのカタルーニャを大事に思う心です。彼はまだフランコ政権が最後の影響力を持つ時代に、初めての息子にカタラン名でジョルディと名づけています。現役を引退し、監督として現場に関わることがなくなった今も、クライフはバルセロナに住居を構え生活しています。こういった行為の一つ一つが、彼を特別な存在へとしているのです。

 
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